ブラックホールーーアイデアの誕生から観測へ
書籍情報
- 著 者:
- マーシャ・バトゥーシャク
- 訳 者:
- 山田陽志郎
- 出版社:
- 地人書館
- 出版年:
- 2016年8月
「アイデアの歴史書である」(「はじめに」より)
「半世紀以上にわたり、一握りの物理学者が流れに抗して、ブラックホールのアイデアを押し進めていった。…略…。いまここに、ブラックホールの認知に向けた、失望や機知、爽快、そして時にはユーモアのある戦いの物語をお届けする。本書は、ブラックホールの解説書でもなければ、天文学の最新の発見や理論的発見を報じるものでもない。アイデアの歴史書である」(「はじめに」より)
「見ることができない恒星」
著者はまず、ニュートンの重力研究にまつわるエピソードを描く。そのあと、こう綴った。「ジョン・ミッチェルというイギリス人がニュートンの法則を、想像しうる最も極端なケースに応用したとき、異様なものの存在が浮上してきたのである」と。
そして、ミッチェルの人物像とともに、彼の「見ることができない恒星」という考えのこと、また、「そのような見えない恒星を「見る」方法を提案した」彼の論文などを紹介する。
本書の特徴のひとつは、さまざまな科学者のエピソードを紹介しているところ。たとえば、ミッチェルについては、つぎのような記述がある。
(ミッチェルの業績を紹介したあとで)「そうした業績にもかかわらず、ミッチェルは、ありふれた研究を載せている学術誌に、自らの洞察力をあからさまにしない、という不幸な性癖があった(たとえば、磁力の逆二乗の法則についても、公式の発見の数十年前に彼は発見していた)。そのため、注目されることもなかった。彼の素晴らしいアイデアの一部は、通常、傍注や脚注に書かれていた。こうして、彼は永続的な名声を逃してしまったのである」
また、数学者のピエール・シモン・ド・ラプラスが、「ミッチェルとは無関係、独立に」、「見ることができない恒星」という考えに辿り着いたことにも触れている。ラプラスは、そのような天体を「コール・オプスキュール」(「隠れた天体」)と呼んだそうだ。
ドイツの天文学者カール・シュヴァルツシルトの発見を、彼とアインシュタインが交わした手紙の内容などをまじえて紹介している
「特殊相対論」と「一般相対論」をつくりあげていくアインシュタインの話題を紹介したあとで、シュヴァルツシルトの発見について述べている。
著者はこう綴っている。「ベルリン・アカデミーでアインシュタインが最終的な発表を行なった直後、実際一ヶ月も経っていないころだが、ドイツの天文学者、カール・シュヴァルツシルトが、一般相対論の厳密解に初めて到達した。その発見をアインシュタインにただちに送った。シュヴァルツシルトは、「アインシュタイン氏の結果がいっそう鮮やかに輝いている」と報告の中に記している。それほど素晴らしい成果であった。それに対し、アインシュタインは驚き嬉しく思った。このとき、ブラックホールの新しい概念への長い道のりが始まったのである」
シュヴァルツシルトは、戦地で、その解を発見したそうだ。第一次世界大戦の真っ最中で、彼は、「ドイツ軍の将校としてロシアの前線で戦っていた」。シュヴァルツシルトの発見は、アインシュタインを介して発表された。
シュヴァルツシルトが発見したものはどのようなものか。つぎのように説明している。
「……略……太陽のような恒星の全質量が、非常に小さな場所にぎゅうぎゅうに詰め込まれたらどうなるかを考えてみよう。その仮想的な詰め込み点の周囲、球形の空間領域からは、突如として何も発生することがなくなる。信号も出ない、微かな光も物質も出ることはない。そうしたことをシュヴァルツシルトは発見したのだった。その球面は「シュヴァルツシルト球」と呼ばれていたが、今日では「事象の地平線」と呼ばれている。その境界の内側で起こっていることは、外側からでは観測できないからである。……略……」
「白色矮星」にまつわるエピソードを綴る。チャンドラセカールの登場
まず、「シリウスとその伴星の物語」を綴る。
その伴星「シリウスB」の存在がまだ明らかにされていなかったとき、その存在を予測したのが、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルだった。19世紀半ば頃のことだ。
その後、シリウスBが「目撃」され(1862年1月31日)、それが「奇妙な天体」であることが浮かび上がり、その謎が解明されていく。それは、何人もの科学者によって成し遂げられた。著者はその過程を丹念に描き出す。
シリウスBは、質量は太陽と同程度だが、サイズは地球よりやや大きい程度の、「高密度で小さい天体」だった。そして、そのような恒星は、白色矮星と呼ばれるようになる。
白色矮星は、安定なのだろうか? その解明には、「一九二〇年代に進展した量子力学が必要だった」。イギリスの理論家ラルフ・ファウラーは、「地球サイズに圧縮された太陽質量の恒星が、白色矮星として安定であることを示した」
1930年夏。19歳のスブラマニアン・チャンドラセカールは、インドからイギリスへ向かう船内で熟考を重ねていた。「奨学金を得た彼は、ケンブリッジ大学で[指導教官]ラルフ・ファウラーのもとで研究生としての研究を始めることになっていた」
「ファウラーは、一立方センチあたり一トンという高密度圧縮天体の中に詰め込まれた電子の圧力が、どのようにして白色矮星を保っているのかを示したばかりだった。しかし、その状態は永遠に続くのだろうか?」。チャンドラセカールは「船内で熟考を重ねた」。「もしも白色矮星がもっと重かったら、何が起こるだろう?」
チャンドラセカールは、「汽船上で計算を行ない、白色矮星の質量に上限があること」を発見した。
では、その限界を超えたらどうなるのか。 著者は、チャンドラセカールとアーサー・エディントンの有名な論争を紹介していく。
「新星」の話から、「超新星」の話へ。そして、「中性子星」というアイデアの登場
「奇妙な天界二人組」ウォルター・バーデとフリッツ・ツヴィッキーの研究を、彼らの人物像の描写を交えながら紹介している。また、星の進化について詳述している。太陽はどのような一生を送るのだろうか。そして、太陽よりもはるかに重い恒星は、どのような一生を送るのだろうか。
J・ロバート・オッペンハイマーに光が当てられている。オッペンハイマーの生い立ちから描き始め、彼の人物像と研究を紹介する
オッペンハイマーの研究にも影響を及ぼした、ソ連の天才科学者レフ・ランダウのエピソードを綴り、そのあとで、オッペンハイマーにまつわる話題を取り上げていく。
「オッペンハイマーは大学院生のジョージ・ヴォルコフと協力して(ときにトールマンの助言も得て)」、研究に取り組んだ。
彼らが明らかにしたことを、著者はつぎのように述べる。「ヴォルコフとオッペンハイマーは、中性子星の終端点を見つけていたのだ。ある質量を超えると、中性子でできた核は縮小し続け、際限なく縮小していく。ちょうどチャンドラセカールが白色矮星に質量の上限を発見したように、ヴォルコフとオッペンハイマーも中性子星について同様な制限を明らかにしたのだ」
では、「その質量限界を超えると恒星はどうなってしまうのだろう?」
オッペンハイマーは、大学院生のハートランド・スナイダーを、こう誘ったそうだ。「限界を過ぎ崩壊する中性子星に何が起こるのか調べてみよう」と。
彼らの研究成果を、著者はつぎのように記している。
「彼らは、恒星が一点に崩壊していくことを突き止めた。その点は、密度は無限大で体積は無となる特異点と呼ばれるものであった(特異点は現実には不可能に思われた)。彼らの方程式は特異点を示していたのだが、直接そのことを語るのはさすがに躊躇した。特異点というのは、物理学者にとって恐怖の対象だったのだ。それは、そうした極端な条件のもとでは、理論のどこかに間違いがあり、数学が物理をきちんと表現できなくなるような領域に入ってしまったという暗示であった」
「この窮地にオッペンハイマーとスナイダーは、もう行くしかないと思った」。彼らは、「論文のタイトルの中で、この現象を「継続する重力収縮」」と呼んだ。「ブラックホールの現代的な説明を初めて確立した」という。
「しかし、それに気づく者はほとんどいなかった」
その論文が発表されたのは、1939年。第二次世界大戦へと突入していく、激動の時代。「恒星全体が重力で崩壊するというテーマ」は、「押し入れにしまいこまれてしまった状態だった。第二次世界大戦は、そのプロセスを加速した」という。
ブラックホール研究の「黄金期」へ。ホイーラーとゼルドヴィッチの登場
「数十年の静穏期を過ぎ、一九五〇年代中頃、一般相対論に関する関心やその応用がようやく勢いを取りもどしてきた」。この書き出しから、「重力研究財団」の話題を経て、アメリカの物理学者ジョン・アーチボルト・ホイーラーの登場となる。
著者は、ホイーラーの生い立ちと、その研究に関するいくつものエピソードを綴る。そして、彼の人物像を浮き彫りにしている。
ホイーラーは、「オッペンハイマーと彼の学生らによる一九三九年の古典的論文に出くわし、特異点というものにひどく面食らった」。そして、「解決法を探った」
「ホイーラーは、特異点を回避できそうなあらゆる方法について考え、一つ一つを数学的に試みてみた」。彼のその見解が紹介されていく。
研究を進めていくうちに、ホイーラーは「改宗」する。彼が「完全に崩壊した恒星の特異点に関する初期の否定的見解を完全に撤回し」、「偉大なブラックホール擁護者」になっていくさまを、著者は描き出していく。
ソ連では、オッペンハイマーとスナイダーの論文が「かなり早くから受けとめられていた」。彼らの論文は、ランダウの「ゴールデンリスト」(確認する価値ありとランダウが判断した重要論文リスト)に加えられていたという。「ソ連の物理学者は、ランダウの知性を疑うようなことはまったくなく、ランダウを非常に尊敬して」いた。
著者は、ソ連のヤーコフ・ゼルドヴィッチの人物像や研究、ホイーラーとの交流を紹介していく。
「ホイーラーもゼルドヴィッチも、独特のスタイルややり方を次世代に伝えた。彼らこそ、ブラックホールの研究を遂行し、その研究の黄金期を迎えることになる」と著者は記している。
中性子星やブラックホールの発見にまつわるエピソードを描く
電波天文学、エックス線天文学、それぞれの発展を描き、中性子星やブラックホールの発見にまつわるエピソードを紹介している。「クエーサー」「パルサー」「はくちょう座X–1」などの話題が登場する。そのなかには、「はくちょう座X–1は本当にブラックホールなのか否か」で賭けをした、スティーヴン・ホーキングとキップ・ソーンの有名なエピソードもある。
本書の魅力は、ブラックホール研究史にその名を刻む〝あまたの科学者〟の研究エピソードを、その人物像を丹念に描きながら紹介しているところ
上記のほかにも、たくさんの科学者が登場する。ロイ・カー、ロジャー・ペンローズ、………、ここにすべての名を記すことが躊躇われるほど、たくさんの科学者が登場する。
最終章(第12章)を飾るのは、スティーヴン・ホーキングだ。その章題は、「ブラックホールはそれほど黒くない」
本書には「エピローグ」もあるが、最終章(第12章)の結びの言葉を紹介して、この書評を終わりたい。
「一九七〇年代のホーキングは、今日へとつながるブラックホールの性質について議論を始めていた。量子重力理論のパイオニアとして足跡を残し、その後同僚の多くが重力と量子力学の意味深いつながりを知ることとなる。自然界のこれら異なる二つの法則が、まだ公式には統一されていないにもかかわらず、物理の聖杯ともいうべきこれらの統一が、いつしか達成できるかもしれないという基本的な兆しがある。物理学者のこうした野望に、最良のガイドとなるのがブラックホールなのである」
ひとこと
読み物としておもしろい。ブラックホール研究史をたどるには最適といえる本。巻末には、「ブラックホール関連年表」もある。