記憶をあやつる
書籍情報
- 著 者:
- 井ノ口馨
- 出版社:
- KADOKAWA
- 出版年:
- 2015年6月
怪しげな書名だが、似非科学の類ではない。記憶を脳科学にもとづいて解説している本。「記憶を人工的に操作してやろう」
いま脳科学の研究室では、「個別の記憶を人工的に結合させたり、切り離したりする研究が行われて」いるという。著者は、「つまり、「記憶を人工的に操作してやろう」というのです」と記している。
記憶の操作、そのようなことができるのか?
このような読者の疑問を想定して著者は、「ぜひ最後まで読んでみてください」と「はじめに」で述べている。
では、最後に何が書いてあるのか。2015年に著者らのグループが米国の科学雑誌「セル・リポーツ」に発表した論文について書いてある。この論文のテーマは、「人工的な記憶の連合」だという。この研究について、著者はつぎのように語っている。「私たちは、二つの独立した記憶を人工的に連合させることで、「現実には起きていない出来事」を、「実際にあった記憶」としてマウスの脳に焼き付けることに成功したのです!」と。
2015年6月に出版された本書は、この研究成果を私たち一般に紹介するために書かれたのだ(と思う)。この研究を紹介している「終章」が、本書のクライマックス。では、どのような展開によって、ここにたどり着くのか。
まず著者は、脳科学の研究史を辿る
人間の精神活動の中心はどこなのか。中国の伝統医学や古代エジプト人の見解から説き起こしている。たとえば古代エジプト人は、人間の精神活動の源は「霊」だと考え、その「霊」が宿るのは脳ではなく「心臓」だと考えていたという。
「古代エジプトから多くの知識を学んだ古代ギリシアでは、有名な哲学者たちが人間の精神活動について思考を重ね、いくつかの説を編み出し」た。プラトン、「医学の父」ヒポクラテス、「解剖学の祖ともいわれる」ヘロフィロス、アリストテレスの考え方を紹介している。
ヒポクラテスは、「我々は脳があるゆえに思考し、見聞し、美醜を知り、善悪を判断し、快不快を覚える」と考えていた。ただし、「脳とは空気の中にある思考の源を取り込んで働かせる場所であり、思考の源は空気中に漂っている神秘的な何か」と考えていた。
ヘロフィロスは、「吸い込んだ空気が肺から心臓に運ばれて「生命精気」になり、この精気が脳に届いて「動物精気」に変化して、神経を通じて手足の筋肉を動かすもとになる」と考えた。
しかし、アリストテレスは、「霊魂は心臓に宿る」という考え方を支持した。
紀元二世紀のローマにガレノスという医師が登場する。ガレノスは、「ヒポクラテスやヘロフィロスの考え方を踏襲して、脳室に蓄えられた「霊気」が様々な精神活動を起こすと考えた」
時は流れ、17世紀、デカルトの登場。デカルトの「精神松果体説」を紹介する。
「デカルトより一世代ほど下のイギリスの解剖学者」トーマス・ウィリスは、「脳室霊気論を明確に否定し、脳そのものが人間の生命維持および精神活動に不可欠であること」を示した。ウィリスは、デカルトの「精神松果体説」を却下し、「大脳こそが思考の座である」と断じた。
まもなく19世紀が始まろうとする頃、フランツ・ジョセフ・ガルが「大脳機能局在論」を唱えた。しかし、これは現在の局在論とは「本質を全く異にするもの」だった。
このあと著者は、「脳科学の萌芽」という見出しで、カハールによる「シナプス間隙」の発見、ブローカ野とウェルニッケ野にまつわる話題、「科学的心理学の誕生」、など、について記していく。
そして、「「ニューロサイエンス」の誕生と分子脳科学の登場」という見出しで、重要な発見について述べていく。
このような流れで、著者は脳科学の研究史を辿る。古代の考え方から語り始めているのがユニークだったので、その部分に焦点をあてて紹介してみた。
つぎに脳科学の知識をもたない読者に向けて、脳科学の基礎知識を伝授する。そのあとで、記憶のしくみを解説
「記憶は電気刺激で制御されている――」ペンフィールドの実験により、それがわかったという。そのような話題から、記憶のしくみを解説していく。
著者はつぎのように記している。
「生物の思考は電気信号の形で脳内を駆け回っています。記憶もまた、電気信号によってコントロールされるというのはペンフィールドの実験によっても明らかです。」「しかし、脳内の電気信号は発生しては消失し、を繰り返しています。ですから、何らかの形で記憶を保持する仕組みが別にあるはずです」
鍵になるのが、「シナプス可塑性」だと述べ、シナプス可塑性とドナルド・ヘブの「セル・アセンブリ仮説」にまつわる話題を紹介していく。
では、「セル・アセンブリ(細胞集成体)仮説」とは、どのようなものか。著者の説明の一部を抜き出してみる。
「ヘブは、情報が入ってきたことで特定の神経細胞が刺激された場合、その神経細胞とシナプスで繋がる複数の神経細胞が一つのグループ(セル・アセンブリ)を作り活動するのではないかと推測しました」
こう続く。「セル・アセンブリを形成するのに威力を発揮するのが、シナプス可塑性です」
本書では、「シナプス可塑性」をわかりやすく丁寧に説明している。そして、「セル・アセンブリ仮説」を実証した研究を紹介している。一つは、シーナ・ジョスリンのグループの研究、もう一つは、利根川進のグループの研究だ。
また、著者らが科学誌「セル」に発表した研究、「海馬で生まれる新しい細胞は、海馬から記憶を消去する役割を負っているということ」についても解説している。
他にもたくさんの話題がある。「長期増強と長期抑圧」、「場所細胞」にまつわること、記憶の種類の説明、など。
「記憶の連合」にまつわる解説を経て、終章へ。著者らの論文のテーマは、「人工的な記憶の連合」
夜道を歩いているときに犬と信号が同時に視界に入ってくる、という例で「記憶の連合」を説明する。つぎのような説明だ。
「夜道を歩いていたという記憶がABC、犬がいたという記憶がADE、信号が赤に変わったという記憶がAFGという神経細胞集団に割り付けられます」
図示している。三つの三角形「ABC」「ADE」「AFG」が、共通点「A」で結びついている図。
本文はこう続く。
「この三つの神経細胞集団は、神経細胞Aで重なっているので、神経細胞集団ABCが刺激される=夜道を歩いていたことを思い出すと、同時にADEとAFGも刺激され、記憶が蘇ります。しかし、集団としてはそれぞれ独立しているので一個一個の事柄は混ざりません」。「このようにそれぞれ別々に割り付けられた記憶が関連付けられることを「記憶の連合」といいます」
著者はこんな例も挙げる。
「ハンバーガーを食べた直後にオレンジジュースを飲んだからといって、ハンバーガーがオレンジ味だったとは認識しません。一個一個のイベントはかなり厳密に区別して覚えています」
細胞レベルでは、それぞれの記憶を、それぞれ別の神経細胞集団に割り付けているということになるという。著者は、「同時に起こったことでも、違う出来事なら同じ神経細胞集団には割り付けません」と記している。
では、なぜそのようなことが可能なのか?
ここから、その説明として提唱されたという「シナプス・タグ仮説」と、それを実証した著者らの研究を紹介していく。
記憶の連合について説明したあと、「終章」に突入する。ここが、本書のクライマックス。そう、著者らの論文のテーマ「人工的な記憶の連合」についての説明だ。書名のように少し劇的に言えば、著者らは脳科学的手法によって、マウスの記憶をあやつったのだ。
終章の章題は、「記憶研究のフロンティア」。この章ではほかに「記憶の再固定化」についても説明している。記憶の再固定化の解説のところでは、「記憶の連合には再固定化プロセスが必要」という話がおもしろい。
この本のキーワードを一つだけ挙げるなら、それは「記憶の連合」だろう。「脳は記憶を連合させることで、知識に昇華しているわけです」。著者は本書でそのように記している。
ひとこと
脳科学の知識をもたない読者も楽しめるように配慮しているので、脳科学に基づいて「記憶」のことを考えてみたい方の入門書(一般向け)として最適。おすすめ。