ブラックホールを見つけた男
書籍情報
- 著 者:
- アーサー・I・ミラー
- 訳 者:
- 阪本芳久
- 出版社:
- 草思社
- 出版年:
- 2015年12月
- 著 者:
- アーサー・I・ミラー
- 訳 者:
- 阪本芳久
- 出版社:
- 草思社
- 出版年:
- 2015年12月
本書は、スブラマニアン・チャンドラセカールの伝記物語であり、また、「星の進化」の研究史にその名を刻んだ科学者たちの群像劇でもある
1935年1月11日。王立天文学協会の会合が、バーリントン・ハウスで開かれた。この日、「星の進化」の研究史における有名な論争、チャンドラセカールとアーサー・エディントンの論争が幕を開けた。
「当時、天体物理学者たちは、自らを粉々に吹き飛ばしてしまう少数の星を除けば、大半の星は白色矮星への道を歩むと想定していた」。「高温だが暗く、小さいけれど驚くほど高密度の白色矮星として最期を迎える」と考えていた。
しかし、チャンドラセカールは、白色矮星の質量に「上限」があることを発見していた。それは、「星の運命についての発見」だった。その発見は、1930年の夏、インドからイギリスへ向かう船上でなされた。彼は、その時、19歳だった。
チャンドラが生まれたのは、1910年10月19日。著者のアーサー・I・ミラーは、「インドの文芸復興」から書き始めて、チャンドラの生い立ちを綴っていく。(チャンドラセカールは、チャンドラと呼ばれることが多かったそうだ)
著者は、チャンドラを知る人々にインタビューし、また、文献を渉猟し、そのような丹念な調査にもとづいて、チャンドラの天才を浮かび上がらせている。著者が話を聞いたなかには、チャンドラの妻ラリータもいる。彼女は「熱を込めて」、こう言ったそうだ。「ラマヌジャンや[サティエンドラ・N・]ボースやチャンドラのような科学者が現われた理由は、一九一〇年に始まったインドの文芸復興にあります」と。そして、「書くならここから始めなければだめですよ。…略…」と語ったそうだ。
チャンドラは「神童」だった。弟のバラクリシュナンは、こう振り返っているという。「…略…。早くから、家族を含めてチャンドラに会っただれからも、非凡な数学の才能の持主だとか、ひいては数学の天才だと認められていた」と。
チャンドラは、「自分もラマヌジャンのあとを追って数学者になりたいと思った」。だが、「チャンドラが科学者になろうとしているのを知った父は、少なくとも数学よりは実際面での応用がある物理学を学ぶよう強いた」。「結局チャンドラは父の忠告をいれたのだが、のちにはそのことに感謝している」
著者は、いくつものエピソードを積み重ねて、チャンドラの天才を浮き彫りにしていく。そして、チャンドラがエディントンの著書『恒星の内部構造』に出会ったときのことを、つぎのように記す。
「チャンドラは、エディントンが量子論をもとに、原子はどのように放射を吸収したり放出したりするのか、さらに、どうすれば星をガスでできた球体として数学で記述することができるかを広範に議論しているのに魅了された」
さらに、チャンドラは、「偉大なドイツの物理学者アーノルト・ゾンマーフェルトの名著、『原子構造とスペクトル線』と出会った」。また、講演にやってきたゾンマーフェルトやウェルナー・ハイゼンベルクと話をする機会にも恵まれた。
ラルフ・ファウラーに論文を送ったときのエピソードも、チャンドラの天才を浮かび上がらせている。つぎのように記している。
「聞いたこともないインド人の若者からの論文が机の上に届いたとき、ファウラーは読み進むにつれてますます大きな興味をもつようになった。ファウラーは二、三の助言を与え、チャンドラも受け入れた。チャンドラは『インド物理学会誌』に提出したばかりの論文を引っ込め、ファウラーに送ってあった論文にその成果を取り込んだ。ファウラーは舌を巻いた。チャンドラが大いに胸を踊らせるとともに鼻を高くしたことに、彼の研究は『王立協会報』の一〇月発行の号に、「かなり重要な論文」として掲載された」
そして、イギリスへ旅立つ時のチャンドラの心境を、こう綴る。「チャンドラは若者らしい楽天的な夢をいっぱいに膨らませ、イギリスに渡ってファウラーとともに学んだり、エディントンの仲間の人々と過ごしたりするのをとても楽しみにしていた」と。
1930年8月19日、チャンドラはロンドンに着いた。白色矮星の質量に「上限」があるという発見を携えて。「彼が携えてきたのは、他でもない、星の運命についての発見なのだ」。著者は、その到着から、1935年1月11日までの出来事を丹念に描き出す。白色矮星の限界質量を扱った研究が「無視されている」とチャンドラが感じるようになっていくさま、「ゲッティンゲンでの交流」、「コペンハーゲンでの半年間」、などなど。
エディントン、ミルン、ジーンズは、王立天文学協会を舞台に「熾烈な論争」を繰り広げていた。「若きチャンドラは、まさに巨人たちとの熾烈な戦いに加わろうとしていたのだ」
1935年1月11日、王立天文学協会の会合で、24歳のチャンドラは、「ほぼ五年近く顧みられることのなかった劇的な発見を紹介すべく席を立った」。白色矮星の質量には「上限」がある。彼は、「時計を見てから論考の最終ページに目を移し、自信たっぷりに結論を読みあげた」。つぎのような結論を。
「質量の小さい星の一生は、質量の大きい星の一生とは本質的に異なっているに相違ありません。……質量の小さい星では、自然の成り行きとして生じる白色矮星の段階は、輝きの完全な消滅へと向かう最初の一歩です。質量の大きい星は白色矮星の段階を経ることができず、別の可能性を考えるしかありません」
質量の大きい星は、どのような最期を迎えるのだろうか。「どこまでもつづく崩壊の過程が始まり、自身の重力に押し潰されて、密度は無限大なのに体積がゼロのきわめて小さな点、特異点になってしまうのかもしれない」。チャンドラの発見は、そのような可能性を示唆していた。
だが、「エディントンらの天体物理学者たちは、星のような大きなものが無限に小さくなる場合もあるということなど、断じて信じようとしなかった」
チャンドラのつぎに話をするのは、「天体物理学の巨人」当時52歳のエディントンだった。チャンドラとエディントンの論争が幕を開ける。著者は、エディントンが話し始める場面を、つぎのように書き始めた。
「つねに芝居がかっていたエディントンは、計算した上でのことだったが、席に着いたまましばらく間をおいて、会場の緊張感を見事なまでに高めた。やがて彼は最前列から立ち上がった。ひとまたぎで演壇に上がると向きを変えて顔を上げ、これ見よがしの尊大な態度で話をはじめた。「私がこの会合から無事逃げおおすことができるかどうかはわかりません」。なぜなら、自分の論考の要点は、チャンドラの理論の根拠そのものがまったくばかげているということにあるからで、白色矮星の質量に上限のようなものはないというのである。全員が息を呑んだ。チャンドラはぎょっとした。エディントンの言葉をちゃんと聞き取ったのだろうか?……略……」
著者は、「謎に包まれた人物」エディントンを、その生い立ちから丹念に描き出し、そして、この論争における「エディントンの真意」はどのようなものだったのかを語る。
本書は、「星の進化」を解明しようとした科学者たちの研究の歴史を辿り、そこに登場する科学者たちの素顔とともに、星の進化にまつわる知見を紹介し、そして、ブラックホールの概念が受け入れられていくさまを描き出している。ブラックホールという概念が登場してから、その存在が観測によって浮かび上がってくるまでには、多くの歳月が流れた。ブラックホールという用語が生まれたのは、1967年のことだそうだ。
ブラックホールとは何か。著者はこう表現している。「ブラックホールは空間に口を開けた井戸のようなもので、崩壊した星が最後の眠りにつく場である」と。「ぽっかり開いた広大な領域に作用する引力は、物質のみならず光をも閉じ込めてしまい、文字どおり何ものもそこから逃れ出ることはできない」
ひとこと
私は、この本をチャンドラセカールの伝記物語として読んだ。この書評では、その部分を中心に紹介した。ほかにも、さまざまな話題が登場し、あまたの科学者のエピソードが綴られていることを強調しておきたい。たとえば、「中性子星」研究、「水爆開発と超新星の研究」などについて述べられている。
文庫版は、上巻348頁、下巻は本文242頁(補遺、謝辞、訳者あとがき、参考文献、原注、含めて356頁)。単行本は、2009年に刊行され、2015年に文庫化された。