盲目の時計職人ーー自然淘汰は偶然か?
書籍情報
- 著 者:
- リチャード・ドーキンス
- 訳 者:
- 中嶋康裕/遠藤彰/遠藤知二/疋田努
- 監 修:
- 日高敏隆
- 出版社:
- 早川書房
- 出版年:
- 2004年3月
生物という複雑なものがどのようにして存在するに至ったのかを論じる
「まえがき」で著者はこう述べる。「私は、われわれの存在そのものが、考えただけでぞくぞくするような謎なのだという見方で、読者を刺激したい。しかも同時に、この謎はすでに明快に解き明かされているという興奮にみちた事実を読者に伝えたい。そのうえで、ダーウィン主義の世界観はたまたま真実であるだけではなく[たまたま、に傍点]、知られているかぎり、われわれの存在の謎をおおむね解き明かすはずの唯一の理論なのだということを、読者に説得するつもりである」
本書のメインテーマは、生物という複雑なものがどのようにして存在するに至ったのか、だ。
たとえば、「眼」が偶然にできるだろうか? コウモリのエコーロケーションが偶然にできるだろうか?
かつて、神学者ウィリアム・ペイリーは、『自然神学』(1802年に出版)のなかで、つぎのようなことを主張した。時計という複雑なものがあれば、目的をもってそれをつくりあげた製作者が存在すると考える。同様に、生物という複雑なものがあれば、その製作者(すなわち神)が存在するという結論に達する、と。また、ペイリーは、望遠鏡と眼を比較し、望遠鏡にデザイナーがいるように、眼にもそのデザイナーがいると論じたという。
著者ドーキンスは、つぎのように主張する。生物という複雑なものをつくりあげたのは、「ランダム」な突然変異と、「ランダムではない」自然淘汰の組み合わせだ、と。進化は「漸進的」かつ「累積的」な過程なのだという。著者は、「一段階淘汰」と「累積淘汰」の違いを説明し、自然淘汰は「本質的にランダムではない累積淘汰」であることを論じる。副題の「自然淘汰は偶然か?」への答えは、偶然ではない、ということになる。そして自然淘汰は、「盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていない」という。
「ランダム」なのは、突然変異だ。しかしこれも厳密にいえば、突然変異は「適応的有利性に関してはランダム」なのだという。つぎのようにも説明している。「突然変異が真にランダムであるのは、「ランダム」という言葉を「体の改善に向かうような偏りは一般に存在しない」という意味において定義するときだけにかぎられている」と。突然変異が、ランダムである、ランダムではない、ということがどういうことかを詳しく述べている。
本書では、複雑なものとは何かという定義、複雑なものについてどのような種類の説明が必要なのか、というところから論じている。そして、「複雑なものの構築には二つの主要な方法がある」と述べ、「その第一の方法は「共適応した遺伝子型」という名のもとで進行し、第二の方法は「軍拡競争」という名のもとで進行する」という。
もちろん、著者ドーキンスのこの主張も登場する。「それぞれの生物個体は、DNAのメッセージがその地質学的な長さの一生のほんの一部をすごすだけの、一時的な乗り物とみなされるべきである」。本書では控えめなトーンで述べている。
生命の起源としては、化学者グレアム・ケアンズ=スミスによって提唱された「無機鉱物」説を紹介している。
ほかにも、さまざまな話題が登場する。「性淘汰の数理モデル」、「区切り平衡説」、「分類学について」、ダーウィン主義の「ライバル理論」、など。
本書は、1993年に刊行された『ブラインド・ウォッチメイカー――自然淘汰は偶然か?』(上・下)を、「改題のうえ全一巻の新装版」にしたもの。
ひとこと
ドーキンスが進化をどのように考えているのかがよくわかる。