妻を帽子とまちがえた男
書籍情報
- 著 者:
- オリヴァー・サックス
- 訳 者:
- 高見幸郎/金沢泰子
- 出版社:
- 早川書房
- 出版年:
- 2009年7月
さまざまな奇妙な症状が浮かび上がる、人間味あふれる「患者の物語」(24篇)
高度の神経学や心理学においては「病気の研究とその人のアイデンティティの研究とは分けることができない」と述べ、このことを「アイデンティティの神経学」と名づけ、人間味あふれる「患者の物語」を綴り、考察している。
本書は、「喪失」「過剰」「移行」「純真」の四部構成。
「喪失」は、機能喪失によって奇妙な症状をきたした、失認症やコルサコフ症候群などの患者の物語。
「過剰」は、機能の過剰であるような疾患をもつ患者が登場する。トゥレット症候群などの話題。
「移行」は、追想ーー「過去への移行」ーーなど、幻覚を取り上げる。例えば、過去の音楽が聞こえてしまう症状について綴られている。
「純真」は、知的障害をもつ患者の物語。ここではサヴァン症候群の話などが紹介される。
書名となった『妻を帽子とまちがえた男』について
彼は長年声楽家として知られ、その後、音楽学校の先生になった。しかし奇妙なことが起こり始めた。生徒が前に現れても気づかない。顔があっても誰だかわからないが、生徒が話すとその声で誰だかわかる。
また、消火栓やパーキングメーターを「子供たちの頭であるかのように」ぽんとたたくといった振る舞いをした。
著者オリヴァー・サックスの診察を受けているときには、彼は足と靴をまちがえた。そして帰り際に帽子を探しはじめたとき、「彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした」。書名のとおり、妻を帽子とまちがえたのだ。
その後サックスは、もう一度会う必要があると考え、彼の自宅を訪ねる。そこで彼の不可思議なふるまいがさらに明らかにされていく。彼の生活はすべて歌とともにあったのだ。
サックスは物語を終えるにあたって、こう述べている。「……思うに彼の場合は、音楽が心象(イメージ)のかわりを果たしていたのだ。……」
他にもさまざまな「患者の物語」がある
『からだのないクリスチーナ』は、固有感覚を失った女性の話。彼女は強靭な精神力でリハビリに取り組み、「固有感覚にかわる、さまざまな代替機能や方法をつかって動くことができるようになった」。しかし彼女は「からだをなくした感じ」をずっと抱え続けていた。
『機知あふれるチック症のレイ』は、トゥレット症候群の患者の話。「トゥレット症患者の例にもれず、彼はおどろくほど音楽性豊かだった」。だが、チックのせいでレイの生活は危機的状況にあった。ハロペリドール(ハルドール)の投与を受ける決断をし、困難もあったが彼のトゥレット症は治った。大きな副作用もなく、安定した状態が続いたが、「音楽的な敏感さ」はにぶくなってしまった。彼は重大な決心をし「現在はレイが二人いる」という。
『追想』は、頭の中で音楽が聞こえる話。彼女は、歌が出てくる子供時代の鮮やかな夢を見た。目が覚めてからも音楽は聞こえていた。次第に、音楽は小さく弱まり、継続的でなくなってくるが、検査をすると「彼女の側頭葉に発作がおきていたこと」が確かめられた。やがて歌はまったく聞こえなくなる。
『自閉症の芸術家』は、自閉症で知的障害でもあるホセの話。「彼は八歳のときに高熱をだし、たえまない発作がつづいた。そして急性の脳損傷、自閉状態に陥った」。20代のホセに会ったサックスは、彼の絵の才能を見出していく。(彼が描いた絵も掲載されている)
『マドレーヌの手』は、「脳性麻痺のために、はじめから盲目だった」60歳の女性の話。彼女は両手を思い通りに動かせなかったが、それはサックスを驚かせた。「通常手というものは、脳性麻痺によっても影響は受けない。多少の影響はあるにしても、本質的には影響しないはずだ。……一般的にいって、かなり使えるはずである」という。そこで彼女の手を調べると、感覚能力は完全だったが、知覚能力は何を与えられても認知できないことがわかった。彼女の手は「それは何か?」を知ろうとする動きを見せなかった。それを「非常におかしい」と思ったサックスは、その原因を考察し、彼女の手を回復へと導く。
感想・ひとこと
上述した『マドレーヌの手』が最も印象に残った。サックスはマドレーヌの「衝動」に期待し、それをうまく引き出すことに成功した。彼女はその手であらゆるものを探査し始め、そして、粘土で人の頭や身体を造るまでになり、「聖ベネディクト病院の盲目彫刻家として、その地域一帯で有名になった。」
通常生後数か月で形成される能力を、60歳になってから身につけることができたのだから驚く。この話のような障害からの回復に限らず、たとえば幼少期から今まであまり取り組んだことがないようなこと、そんな眠った能力が誰にでもあって、それは衝動がおこれば開花するのかもしれない。そんなことを思わせてくれる話だった。